自転車(ロードバイク)・山歩き・自然・田舎暮らしなどについて。
2月になるとそわそわするのです。
案内板の内容
このため、竹と縄で作った歌舞伎小屋を撮影した。
当る 2月12日 午前11時より 田峯観音 谷高座
案内板の内容
田峯観音奉納歌舞伎の由来
文明四年(1472)荒廃する真言宗日向寺を、田峯城主、菅沼定信(三郎左衛門・定吉・信濃守)が再興、曹洞宗に改め日向寺を菅沼の菩提寺とした。正保三年(1646)九月十四日、この寺は炎上し、またたく間に焼失してしまった。村民大いに落胆すれども容易に再興ならず、八年を費やしてようやく承應三年(1654)四月に再建した。この再建資材を調達したのが段戸山のとうずい(地名)であることから幕府の直轄林盗伐の疑いがかけられた。このことに関連して地元には次のような田峯観音霊験伝説が今に残る。
これによると盗伐の疑いにより代官鳥山牛之助が実地検分に来ることになった。途方にくれた村人は、もはや田峯観音のお力にすがるより他無しとし「もし災難を救ってくれたならたとい村が三軒になるまで歌舞伎を奉納致します。」と三日三晩観音堂にこもり村中祈願した。その満願の日代官は手代を連れて検分にやって来た。六月土用の暑い日だったが、いざ山に入ろうとするや一天俄にかき曇り雪がこんこんと降りだした。一行は「カタノタワ」という所まで登ったら積雪尺を越すほでになりこれ以上進むことは困難である。「この場で検分致すぞ」と眺めたがあたりは、積もる雪で真白である。その為に罪をかせられた切株の跡は発見することができず代官は「この件については証拠不充分の為無かったものとする。」と言い残し赤坂の代官所へ帰った。村人は、観音様のおかげとその年歌舞伎を奉納して以来現在に至るもなを歌舞伎は続けられている。 設楽町
このため、竹と縄で作った歌舞伎小屋を撮影した。
当る 2月12日 午前11時より 田峯観音 谷高座
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